2025.6.18
わたしはずっと、「真面目じゃね」って言われるとなんだかよく分からないけど悲しくなっていました。
なんでだろう?ってずっと思ってたんですけど、最近やっと言語化できてきました。
たぶん、馬鹿にされてるように感じてたんですよね。
「そんな価値も意味もない無駄なことに、よくこだわれるね。」
「どうでもいいことなのに、それが分からないあなたは馬鹿だ。」
そんな感じで、私の価値観や性格を全否定されてるように感じてたんです。
また、くだらないものとして見下されてるようにも感じてました。
わたしとしては、必要だと思うからやってただけ。
仕事でも私生活でも、いまこれを抑えとかないとあとで面倒なことになると感じるから、いまこだわってやっておく。
わたしにとっては当たり前のことで、「起きるかも」と感じた問題が実際に起きることは何度もあったから、それを事前に防ぐためにやっていた。
ただそれだけのことで、特別なことでもなんでもない。
でも、「真面目じゃね」って言ってきた人が本当にわたしを馬鹿にしていたかどうかはわかりません。
実際に馬鹿にしていた人もいるでしょうし、「すごいね」って感心する意味で言ってくれていた人もいると思います。
結局どっちでもいいし、どんな意味で言われててもどうでもいいんですよね。
他者がなにを思おうが、それはその人の心の中の話でわたしには関係ないし、わたしが強制できるものでもありませんから。
なにより、他者がどう思おうが、わたしはなにも変わらない。
だから、理屈で言えばわたしはべつに傷つかないはずなんです。
でも傷ついていた。
じゃあなんで傷ついていたのか?
それは、劣等感のかたまりだったからです。
「自分は劣っていて、どれだけやっても合格点をとれない、ちゃんと生きられない。」
そう思ってるから、必死に失敗しないようにする。
「周りから真面目に見えるぐらいわたしは必死にやらないとできないのに、ほかの人はそんなに必死にやらなくても出来る。」
「真面目じゃね」って言われると、それを証明されてしまったように感じていたんです。
「わたしはこんなに必死にやってるのに、それでも足りないんだ・・・」
「わたしはこんなに必死にやってるのに、ずれてるんだ・・・」
こんなふうに感じて、劣等感が強烈に刺激されちゃってたんですね。
つまり、「真面目じゃね」っていう言葉がわたしを傷つけていたんじゃなくて、わたしの劣等感がわたしを傷つけていたんです。
いまは、いろいろあって劣等感とはうまく付き合えるようになってきて、実はほどほどにやっても十分ちゃんと出来るんだということが分かってきました。
また、必死になって取り組めることも、わたしのいいところだと分かってきました。
自分を客観的にみて、それなりに妥当な評価をできるようになってきました。
そもそも、出来る出来ないはわたしの存在が劣ってるかどうかには全く関係ないんだなと感じるようになってきました。
それでも、「真面目じゃね」って言わるのはあまり好きではありません。
「あ、こいつおれのこと小ばかにしてるな」って感じることがあるからです。
実際に、小ばかにするために「真面目じゃね」って言う人はいますから。
そんな人はほっとけばいいかなと思ってます。
人を小ばかにして生きるより、真面目に生きる方が自分に誠実で気持ちがいいですから。