2026.4.14
先日、「なんかめっちゃ疲れてるなー」という日がありました。
その日にものすごく頑張ったわけじゃなくて、仕事もいつも通り。なのに、妙に疲れている。
一時的な疲れというより、体力の“土台”がガクッと落ちている感じ。
「なんだこれ……」と思いながら、そのまま心療内科の定期通院に行きました。
診察で先生と話しているとき、こんな言葉が出ました。
「そういう動きは、躁だったからできてた可能性があるね」
この瞬間、わたしは愕然としました。
というか、「わたしは何者なんだ?」という疑問が突然湧いてきて、同時に、言葉にしづらいけど深い不安が生まれました。
“自分の在り方”が、急に分からなくなった感じです。
先生の言葉を、わたしはその場でこう受け取りました。
・普段は使えないけど、躁状態なら使えるスキルがあるのかもしれない
・ただしそれは、自覚できないダメージを受けながら発動しているスキルなのかもしれない
・わたしが「自然体で当たり前にできてる」と思っていたことが、実はそうじゃない可能性がある
この一言で、わたしが持っていた「生きる」という感覚が少し崩れました。
極端に言うと、こんなふうに突きつけられた気がしたんです。
「普段は意識しなくても呼吸できるけど、あなたの呼吸は“自然にはできない”かもしれません」
「だから常に呼吸を自覚して、しすぎないようにしたほうがいいですよ」
もちろん、先生が本当にこう言ったわけじゃない。
でも、わたしの中ではそれに近い衝撃として響きました。
「わたしは根本的に何かを誤解していたのかもしれない」
そんな感覚でした。
強い不安が出た一方で、その場でひとつ自覚できたことがありました。
それは、わたしの癖です。
現実感を無視して、0か100で考えてしまう。
たとえば、こういうふうに。
スキルが「ある」か「ない」か
使えるか、使えないか
使うと疲れるのか、まったく疲れないのか
こういう二択の世界に持ち込んでしまうと、グラデーションが見えなくなります。
現実って、たいてい中間だらけなのに。
冷静に考えると、たぶんこういうことなんだと思います。
「スキルはある。でも、使い方を間違えることがあるよね」
わたしが言う「使い方を間違える」は、だいたい次みたいな意味です。
・そのスキルを使うと体力を80%持っていかれるのに、5%くらいで済むと勘違いしている
・すごくダメージを受けているのに、そのダメージをほとんど自覚できない
・そのダメージを、なぜか“充実感”だと勘違いしてしまう
つまり、挨拶するみたいな感覚で無自覚に使っていると、当然ものすごく疲弊する。
しかも、その疲弊に気づきにくい。
これ、躁鬱の波の説明としてよく言われる流れと、かなり合致します。
わたしの場合、流れはこうです。
「スキルを使って職場にプラスの影響を出し続ける」
↓
「どこかでガクッと落ちる」
↓
「動こうと思っても動けない」
↓
「当たり前だったスキルすら使えなくなる」
躁鬱の説明でよくある、
「活力にあふれて精力的に動けるけど、その状態はいずれ鬱に落ちる」
という話を、わたしの感覚で具体化すると、たぶんこういうことです。
「構造を理解する」という視点で考えると、わたしの躁はこう説明できるのかもしれない。
そう思ったら、さっきまでの強烈な不安はスッと薄れていきました。
不安が消えると、「わたしは何者なのか?」という疑問だけが残りました。
「わたしは何者なのか?」という疑問は、結局こういうことだと思います。
「わたしは、どうあると自分らしく楽しく生きられるのか?」
今回の先生との話は、その問いに対する“自分なりの答え”を探す上で、かなり大きな意味を持つ出来事になりました。
不安から抜け出せたので、次のステップに進みました。
それは、
「自分らしく楽しく生きるために、自分のスキルを適切に評価して、スキルの使い方を覚えるにはどうしたらいい?」
という問いに、現時点の答えを作って実践していくことです。
このステップはまだ始まったばかりで、答えは全然出ていません。
でも、自立訓練で自分の内面や障害特性への理解を深めてきた経験は、大いに活かせる気がしています。
現時点で、まずやってみることは4つです。
・疲れているサインを見つける
・疲れることは一切やらない
・他者から「疲れていそう」に見えたら教えてもらう
・なぜ疲れているように見えたのか、具体的な根拠も教えてもらう
「疲れることは一切やらない」はかなり極端です。
でも、いったん極端に振り切ってみないと、わたしは“ちょうどいい”が分からなくなることがあります。
わたしのいつものやり方は、最初から「いい感じ」を目指さないことです。
まずは極端な位置に立ってみる。
その極端な位置での感覚をひとつの基準にする。
そこから少しずつ調整しながら、グラデーションを自覚していく。
その過程で得た感覚や方法を組み合わせて、「ちょうどいい位置」と「調整の仕方」を探していく。
わたしの「極端に考える癖」が、ここでも思いっきり出ています。
でも、たぶん今回はいい方向に使えている気がするので、ひとまず良しとしています。
「自分らしく楽しく生きる」という目標は、10年くらい前から、わたしなりに真剣に取り組んできました。
今回の出来事は、その目標を実現するための大きな転換点になるかもしれない。
そんな予感があります。
ただ、まだ始まったばかりです。
また何か気づきがあって、変化を自覚できたら、続きを書きたいと思います。