
2026.9.15
休みの日に、ソファに座ってぼーっとしているときがあります。
テレビを見るでもなく、本を読むでもなく、スマホを触っているわけでもない。
本当に、何もしていない。
そういう時間が長くなると、昔のわたしはだんだん落ち着かなくなっていました。
「せっかくの休みなのに」
「何かしたほうがいいんじゃないか」
「一日がもったいない」
別に誰かに怒られているわけではありません。
今日中に絶対やらないといけないことがあるわけでもない。
それなのに、何もしていないだけで、ちょっと悪いことをしているような気持ちになる。
今考えると、不思議です。
「何もしていない時間に罪悪感がある」と言うと、
「休むことも大切ですよ」
と言われることがあります。
それは本当にそのとおりです。
わたしも頭では分かっています。
でも、「休むことは大切だ」と知っただけで、急にのんびりできるようにはなりませんでした。
横になっている。
でも頭の中では、
「洗濯くらいできるよな」
「何か勉強したほうがいいんじゃないか」
「せっかく時間があるのに」
と考えている。
体は止まっているのに、心の中ではずっと働いている。
これでは、あまり休んだ気がしません。
むしろ、何もしていない自分を監視している感じです。
「はい、今日も何もしてませんね」
と、もう一人のわたしが横で採点している。
嫌なやつです。
しかも、その採点をしているのも自分なので、逃げ場がない。
以前のわたしは、何かをしていると安心できたのだと思います。
仕事をしている。
人の役に立っている。
予定をこなしている。
勉強している。
そういうときは、
「自分はちゃんとしている」
と思いやすい。
反対に、何もしていないと、自分の価値まで止まったような感じがする。
これは少し大げさかもしれません。
でも、わたしの中にはたぶん、そういう感覚がありました。
仕事をしていたころ、できるだけ頑張ろうとしていたのも、単純に仕事が好きだったからだけではありません。
頑張っている自分なら安心できる。
役に立っている自分なら、ここにいていい。
そんなものも混ざっていたのだと思います。
だから病気になって仕事を離れ、何もできない時間が増えたときは、かなりきつかったです。
休んでいるというより、
「何もしていない人になった」
ような気がしていました。
少し体調が戻ってきてからも、この癖は残りました。
ただ休むことが難しい。
だから、
「今日は疲れているから休む」
と言い聞かせる。
これはまだいい。
でも、そのうち、
「明日の仕事のために休む」
「体調管理のために休む」
というふうに、休むことに理由をつけ始めました。
理由があれば、休んでもいい。
つまり逆に言うと、理由がなければ休んではいけない。
そうなっていたんだと思います。
今は、この考え方に少し違和感があります。
たしかに、疲れているから休む日はあります。
明日のために早く寝る日もあります。
でも、
「今日は何となく何もしたくない」
だけの日があってもいいんじゃないか。
最近は、そう思います。
何となくぼーっとしたい。
理由は分からない。
まあ、そんな日もある。
それでいいんじゃないかと。
一時期、わたしは休みの日にも予定を入れていました。
朝はこれをする。
昼からこれをする。
空いた時間にこれをする。
予定があると安心します。
一日を無駄にしていない感じがするからです。
でも、予定をこなす休日は、結局ちょっと仕事に似ていました。
やることが違うだけで、
「次はこれ」
と動き続けている。
そこで、わざと予定を入れない時間を作るようになりました。
最初は落ち着きませんでした。
何も予定がない。
何をしてもいい。
逆に困るんです。
「で、何をしたらいいんだ?」
と思う。
何もしなくていい時間なのに、何をするか考えている。
我ながら面倒です。
でも、何度かやっていると、少しずつ慣れてきました。
昼まで寝ている日もある。
気づいたら一時間くらいぼーっとしていることもある。
そのまま一日が終わって、
「あれ、今日何したっけ」
となる日もあります。
以前なら、そこで自己嫌悪になっていました。
今は、
「まあ、こういう休日もあるか」
くらいで終わることが増えました。
これは、わたしにとって意外と大きな発見でした。
一日何もしなくても、別に何も起きませんでした。
価値が下がるわけでもない。
誰かに見放されるわけでもない。
次の日になれば普通に仕事へ行く。
当たり前なんですけど。
でも、昔のわたしは、何もしないと何か大事なものを失うような感覚があったんだと思います。
実際には、何も失いませんでした。
むしろ、一日ぼーっとしたあと、
「そろそろ何かしたいな」
と自然に思うことがあります。
無理やり自分を動かすのではなく、勝手に動きたくなる。
この感覚は、けっこう好きです。
「やらなきゃ」ではなく、
「やりたい」
が戻ってくる。
何もしない時間は、そのための空白なのかもしれません。
……と書くと、また「何もしないことの意味」を作ってしまっていますね。
別に意味なんてなくてもいいのかもしれません。
最近、わたしが意識しているのは、
「何もしていない自分を肯定しよう」
ということでもありません。
「何もしない時間は素晴らしい」
と思おうとしているわけでもない。
それも少し頑張っている感じがするからです。
良いとも悪いとも決めない。
ただ、
「今日は何もしてないな」
で終わる。
それくらいです。
仕事をした日は偉い。
家事をした日は偉い。
何もしなかった日はダメ。
そういう採点を少しずつやめる。
人は、何かをしているときだけ存在しているわけではありません。
……なんて書くと、ちょっと大げさですね。
もっと単純に、
何もしない日があっても、次の日は普通に来る。
それで十分なのかもしれません。
今でも、何もしていない時間が長くなると、
「何かしたほうがいいかな」
と思うことはあります。
完全になくなったわけではありません。
でも、昔ほどその声に従わなくなりました。
「ああ、また言ってるな」
と思う。
そして、もう少しぼーっとしている。
罪悪感がなくなってから休もうとすると、たぶんずっと休めません。
罪悪感があっても、そのまま休んでいい。
そのうち、罪悪感のほうが少し飽きてきます。
何もしない自分を好きになる必要もありません。
「まあ、今日はこんなもんか」
くらいでいい。
昔のわたしは、何かをしている自分でいようと、ずいぶん頑張っていたんだと思います。
今は、何もしていない自分も、わたしの一日の中に普通にいます。
ソファに座って、ぼーっとしている。
「あー、今日ほんとに何もしてないな」
と思う。
それで少し笑えるくらいになりました。
たぶん、わたしにとってはそのくらいがちょうどいいんだと思います。